追い立てられて。
穏やかではありません。いや、そうでもないか。
うらはらなこと、何ごにょごにょ書いているかというと
ドラマ「終活シェアハウス」を見始めてすぐのインパクトが
ドラマ「プラチナエイジ」を見ていた時のことを浮かび上がらせたからなのです。
キャストに同世代がいる。
それだけで、ドラマは当事者感?満々なものになっていく。
ってな受け取り方をしてしまう(させられてしまう)流れが私の中にはあるようで、
「プラチナエイジ」(2015年放送)の時の、
わわっ、もうカンレキ期のこと、現在地として感じていかなくちゃ、の頃合いなのか。
受け入れがたいもんじゃのぉ。
のどこか苦いような思いが
「終活シェアハウス」を見始めて、登場人物眺めているときによみがえった。
終活ねえ。。。
同じ語感ではまだ始めていないけれど、
《メンテナンス》みたいなものは、「氷はじめました。」のように始め(てみ)ました(^^)/。
いやなに、「なんていい天気なの。大掃除だ。今だ。」気分に乗って
あちこち「だわへし」始めてみたはいいけれど
そもそも 出したり分けたり…レベルでは済まされないような 要・システム補修なところだらけであった。
まず、書き出そうではないか。と自分に激励しながら、今度は
書き出す、事の大変さ。
そこをなんとか乗り越えようとなんとか書き出して
重複表現の先に気が付いたのは、
「書き出す」≒「メモを作る」≒「自分だけに分かればいいから、簡略的に書く。」
―っじゃ、ダメなんだ><!ということ。(私の場合。)
だって、そんなようなメモが手元に幾つもありますもん。
その走り書き的メモの当時の意図が
書いた本人なのに こりゃ、何書いてあるんだ? と分からなくなっている。
◯ すっきり書こう。分かるように書こう。
◯ 読み返したら、その先がすぐ継続できるように書こう。
と今回は、上記の誓いの言葉!!の下に
ノートまで作ってしまった。
もしや、
「その先がすぐ継続できるように書こう。」のところが断定的(これこれこうなっています的な?)になれば
「メンテナンスノート」は
「終活ノート」となって行き得るのでしょうか。